自分が歴史上の人物だと仮定してほしい。 一体、今はどんな時代だという風に言われるだろうかと。自分の身体が消え去り、自分の存在を証明してくれていた物の数々もなくなり、ここに僕が存在していたことを証言してくれるのがただの紙の上の記述になってしまう前に、一体自分に何ができるだろうかと。そして、僕が歴史の記録に残ったとして、一体どんな風に研究されて、どんな評価を受ける? そういう風に考え始めると、一日一日を無駄にはできないだろう。明日を変えるために、何かをせずにはいられなくなるはずだ。少なくとも、今日や明日を変えるために何かをしようとして、後世にどうやって評価されるかと、夢想に駆られるのだ。 いずれこの日々も遠い過去になるのだ、という摂理は、厳しく無情ではあるが同時に慰めでもある。少なくとも、自分の物語はそこで終了し、あとはそれを残された人間がどう評価したり、新しい物語に繋いでいくかを考える段階に入っているのだから。 無論、一人の人間にできることには限りがある。数千数万の人間の意識が作り出す歴史の意志の前に、打ち勝つことなんてできやしない。 それに、心配できる時間なんてせいぜい数十年くらいだ。数年後の世の中でさえ予測不可能なのに、わざわざまだ来ていない時間についてあれこれ考えをめぐらせても意味はない。遠い未来まで支配することはできないのだから。 だから僕にとって大事なのは、まず目の前を変えることなんだ。自分の意志を貫いて、目の前の現実にぶつかっていくことだ。 自分を変えようとは思わない。それは他者に対する迎合であり負けを認めることだ。人は誰一人変わらないし、変われない。どれだけ辛く苦しくても、自分の非を認めずに相手の非を指摘し続ける方が、精神的にはまだましだろう。 僕は能動的にしか生きたくない。これは決してかっこいいことを言っているのではなく、ただそうすることしかできないからだ。 こういう世界が来てほしいと考えるだけなら自由だ。そしてそれに向かって行動していくことが大事だ。それがどれだけ空しいことであっても。「そんな未来が訪れるはずがない」と自分で突っ込んで、諦めるのが一番いけない。未来の世界の姿は一人一人の行動の結果なのだから。 たとえ今の時代がどれだけ不毛で空しいだけのものだとしても、後世の人間は必ずそれにも意味があると考えるだろう。 もちろん『意味があった』と思わせるために、今を生きる僕たちはいつか生まれてくる彼らのために、僕たちの意志を継承させなくてはならない。 精神的な継承が大事なんだ。ただ肉体的に子孫を作るだけが唯一の継承の方法じゃないはずだ。 もちろん、人間の命のやり取りが、遥か昔から続いてきた尊いものであることは承知しているが、それだけでは失われてしまうものはあまりに多い。人類そのものは何十万年もの間存続しているが、その長い時間に反比例して今人間が見知っている知恵は本当にたかが知れたものだから。 こうして苦しむ日々もいつかは歴史になり、語られる。それをしめくくる言葉が、賞賛になるか、あるいは嘆きになるか、それを決める要因は僕たち自身の中にある。 いずれ地上から人間がいた痕跡が払拭され、地球が朽ち果てるとしても、僕がここに存在していたという事実だけは決して消えないと信じたいのだ。そして今考えているものも、信じているものも、まさしくこの魂の中に間違いなく存在していたと信じたいのだ。 |