これからの日本の展望

 南海トラフ地震が近々起きるだろう……という予測が、現実味を帯びつつある。
 もしそれが起きたら、どうなる。その次に、何が始まる。僕は、どうしてもそのことに思考を巡らせてしまう。

 僕は東日本大震災が起きた時中学校の教室の中におり、激しい揺れを感じた。
 事態の凄まじさを実感したのは、新聞のテレビ番組欄が一面、被災地の現状を伝える特別番組の予定で覆われたことである。
 あれから数年は、本当にこの世の終わりのような空気感が漂っていた……あの世相を知らない世代がもう存在することが恐怖だ。僕自身も、あの後の喪失感が永遠に続くような気がした。
 東日本大震災の時は、日本が一丸となって復興に取り組もうとする意志があった。
 だが今は違う。あの頃に比べると無関心になってしまったし、共同体も解体が進んでいる。
 あの時のような、全てが終わったような空気を感じる人はいるだろうが、いたとしてもその時よりは少ないだろう。
 もっと大きな犠牲が出るだろうが、きっとそれに対する反応はあの時よりずっと冷淡に違いない。もう、どんな災厄が起きたとしても世の中はそれでも普通に回る、ということを人々はよく理解してしまったからだ。これは本当に嫌な感覚だ。
 あれほど国家の存続をおびやかす事態がこの先起きたとして、再び国民は一つになれるのか。私は、あまりそう楽観的に捉えることができない。
 どれだけの被害者が出るか。どれだけの経済に悪影響を及ぼすか。
 疑心暗鬼に駆られた人々が何をしでかすか分かったものではない。
 そうならないために人間同士の繋がりや連帯が必要なわけだが、そもそもそれを可能にするシステムすら廃れつつある。そうなるとある程度の苦しみは避けられないわけだ。

 南海トラフの被害予測を見ていると、途方もない犠牲や損害が出るとされているが、一体それを経験した社会がどのような変化を起こすのか、まったく予想がつかない。
 だが自然災害が起きること自体は、社会の崩壊を加速させる一因でしかない。
 もう十年前に比べても社会は大変変わってしまったし、その変化のスピードが加速しても、減速することは決してない。
 あの地震だと東京も決してただでは済まないようなので、いよいよもって首都にあらゆる人間や経済が集中しているなどの事情は大きく変わるだろう。
 だが、災厄が起きた直後にすぐに何もかも変わるわけではない。どんな大事件でも、起きた直後は直前の社会秩序が維持されているものだ。何かが起こり、それが具体的に何を意味するのか分かりかけてきた所で、ようやく人々の心理に変化が起きるのである。
 いずれにしろ、何かが変わる。生活にしろ、習慣にしろ。それがどこに向かうのかは誰も分からない
 間違いないのは昭和・平成に延長線上にある社会は間違いなく消え去る、ということだ。

 犠牲者が出て、だがそれを何とも思わない人間が星の数ほどいる、と想像するのはあまり気持ちのいいことではない。
 だが、人間のモラルの崩壊は一度起きれば決して元に戻ることはない。現に荒廃しているのだ。インターネットがどれだけモラルを荒廃させたか。
 これから一層人間の道徳は退廃していき、さらに市民は怯えねばならなくなるのではないかと思われるほどだ。
 そうなれば国家は厳しく違法行為や不品行を取り締まらなければならない。
 だから僕は確信してしまう。これからの日本は強権的にならざるを得ないのではないだろうかと。
 皇帝一人による独裁を断行したディオクレティアヌス以後のローマのように、固定的で、自由のない社会になっていくのではないか?
 だがそれは国民に責任のあることだ。そして人間にそれを仕向けた無数の要因に。
 ましてや自然災害ばかりが脅威ではない。戦争の危機が身近になっている。
 戦争の中で生まれた人々が、戦争の中で死んでいくかもしれない。一体、そのような人々がどれだけの絶望を抱えて死んでいくか。想像して余りあるものだ。

 自然災害だけが脅威ではないのだ。
 戦争も災害も起きる。そして、人々はそれに対して悪意をこじらせ、膿んでいくことはあっても、清く正しく生きていこうとは考えないのではないか。
 人の死を酒の肴にするような気風がすっかりインターネット上にしみついてしまった。その内、自分の住む街が戦火に巻き込まれて沢山の犠牲者が出てもネタにするようになる。
 自分の身に危険が迫っていてもヘラヘラして、平気でそれをギャグにするような腐りきった根性の人間が現れてもおかしくない。その一方で、隣に住む知らない人々への無知や偏見はさらに広がり、ちょっとしたトラブルが起きただけで彼らを排斥してしまおうとする不寛容はますます蔓延する。
 その結果、考えられなかったような怪しげな思想や憎悪が跋扈して、それに釣られてかつてなら考えられないようなことを誰かがしでかすわけだ。その時の凄まじさに比べれば、現代の混沌など取るに足らないものになっているだろう。仮に自然災害が起きなかったとしても、日本社会が次の虐殺を引き起こすための準備をしているのは実感する。たとえ自然が人間を殺さなくても、人間が人間を殺すのは避けられないわけだから。人間が集まった時に起きる排他的な動きは怖ろしいからね、せいぜいその犠牲を少なくすることしかできない。
 いつか起きるかもしれないことは、現に起きていることだ。

 だがそれをむやみに悲観する気はない。いずれ全ての事実は風化する。
 未来を生きる人間にとっては、もはや全ては過ぎ去った過去のものになってるんだろう。
『恒産無ければ恒心無し』は真理だ。人間社会がおおむね善性で営まれているのは、科学技術や富のおかげであり、それが維持できなくなったら野蛮に回帰するだけ。そこに善も悪もない。
 いつか必ず起きることなら、それは今起きているも同然だ。だからこういったことについて語ることが不吉だとは思わない。
 その先を見たいんだ。別に困難を乗り越えて生きようとする意志ではなくて、怖いもの見たさの下卑た好奇心で、将来を知りたいのだ。そして今は、いまだ訪れない時代に向かってひたすら苦しみ続ける、実につまらない期間。そんな時に生まれてしまったのが、悔いといえば悔い。
 次の時代の姿を見はるかすには、今はまだ早すぎる。
 未来はあまりに不確実である。人間の頭脳で未来を予測しても、現実は人間の頭脳を常に越え続ける。


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