SNSにしても、感想にしてもできるだけコメントを送るようにしている。コメントこそ、相手に、相手の投稿をきちんと読んでいるぞという最も確たる意思表示になるからだ。言葉をやり取りしなければコミュニケーションは生まれない。文章化することで、相手にも、自分にも、ぼんやりとした思想の掘り下げと、新たな考え方への気づきがもたらされるからだ。 逆に、「いいね」は基本的につけない。なぜならそれは単なる数値のカウンターであり、何の意思表示にもなっていないから。僕としては、会話の糸口を何としてでも広げたい方なのだ。 会話から意思疎通が生じ、相互理解が始まる。 ところが、インターネットではそうやってやり取りするのは面倒くさいし、何より顔を合わせて話しているわけではないから誤解が生じやすい。感情を伴わない文章ではなおさらのことだ。だから大抵の場合は帳尻を合わせながら話すよりもっと簡単に、一方的な意志伝達で済む共感の方を重視する。 となるとネットでは共感されるには、なるべく「見られる」のがいい、ということになる。 最近のネットは「人に見られる」のを前提にしているから歪みが生じるんだよな。「見られる」のが当然という状況はすべからく「見られなければならない」という強迫観念を招き、そこから見られることを求めて不毛な数値の競争になってしまうし、しまいには迷惑行為をしてでも注目されようとする歪な風潮が現れる。 「いいね」も「RT」も人間対人間のコミュニケーションに相応する物が存在しない。フォロー機能も、相手の投稿をタイムラインに常に表示しておくための措置でしかないのに、それ以上のものとして解釈されてしまっている。所が最近のネットサービスではそういう非現実的な物があって当然の物だという風に設定されている。荒らしを防止するためコメントをつけられないようにできる機能もあるが、ああいうのも現実にはあるはずがない。 大体のブログにも、評価ボタンだったり共有ボタンがあるのが気に食わない。 ただコンテンツと、オプションでコメント欄が置かれているだけの昔のインターネットの方がよっぽど気楽だろう。現状を健全なものだとは思えないので。ただ、今更昔にも戻れない。今のネットに今のネットの良さがあるのも事実だからだ。ただ個人的にはそれだけでは疲れる。一切自分のコンテンツ以外を置かないサービスとかがあってもいいのに、と思ってしまう。 それと、今のインターネットでは短文が基本的に重んじられるが、僕としては少し時間をかけて、考えを何度も練り直しながら長文を書く方がやりやすい。誰もが簡単にやっていることなので理解されないかもしれないが、短い文章を連続して書くのって意外と面倒くさい。それにその場の思い付きを投稿するのは文章を書く者としての僕のポリシーに反することである。 短ければ短いほど、解釈しづらくなる文章はよくある。僕としても何のために書いたのか分からない、というような文章はできるだけ書きたくない。他人の文章に感想を書く時もそれに気を付けているが、それでもなかなか真意が伝わらないのが疲れる。ネット上のやりとりは基本的に不完全な物でしかないし、顔を合わせて行うコミュニケーションには及ばないことを悟るべきなのだ。 |