ゴヤ書簡集感想

 大髙保二郎・松原典子編訳「ゴヤの手紙」(岩波文庫)読んだ。
 ゴヤが生涯に書いた手紙と、政府や教会から彼に向けて送られた百葉以上の書簡が翻訳され、収録されている。
 受洗照明の届出が初めになるあたり、キリスト教世界において教会が個人の人生に深く関わっていることがよく分かる。絵を完成させる共同作業を巡ってトラブルを訴える手紙もある。また画家であった彼がアカデミーの面々に向かって説く美術論は、現代においても決して過去の物となってはいないように見える。まだ絵画の在り方が前時代的な要素を著しく残していた時代だ。絵画の歴史に一つのコンマを打った瞬間に注目すべきであろう。絵画の納品を伝える手紙も、それ自体は短く無味乾燥な印象を与えるが、ゴヤと周囲の人間関係をうかがい知ることのできる貴重な資料ではないか。
 親友サパテール宛に書いた手紙の、時にして下品な感じのする雰囲気は友人とのこの野卑なやり取りはさほど現代とノリが変わらない。彼の手紙には絵文字然とした、意味の不可解なものがあり、現代ではその示す所を巡って論争になる。手紙が決して他人に盗み見られることを考えていなかった証左だ。特に「no」を一面に書き散らしたものはくすりとする。もっともサパテールの死によってこの類のはっちゃけた内容のものはすっかり絶えてしまうのだが。彼の人生は非常に苦労の多い物だった。高熱で耳が聞こえなくなったし、晩年には戦争にも巻き込まれた。それでも彼は絵を描くことに対する意欲を失わなかった。Aún aprendo(まだ私は学ぶ)とはあらゆる創作者が脳裏に刻み付けておくべき言葉だ。

 一人の人間の人生を覗き見るのは嫌らしい趣味だ。プライバシーを侵す不法行為だ。僕だったら決してそんなことされたくない。しかし歴史研究は往々としてそういう一面がある。
 書簡というのは人や組織の間でのみ行き交う、閉じられたもの。思えば聖書の中のパウロの手紙だって、基本は教会の中でだけ通用するものであって一般に見られるのを意図したものではなかったはずだ。そこにこそ人間の本音を吐露したドラマがあるではないか。だからこそ文学としての手紙が一代ジャンルを築いているわけで。
 物としての手紙がすっかり書かれなくなり、snsやeメールにとって代わられた現代ではそういうのを後世に残すのは非常に難しい。ゴヤの書簡も全てが残っているわけではなく、散逸したり一部か翻訳しか残っていないものが沢山ある。だがその一部だけでも読むべき価値がある。手紙という媒体だからこその魅力なり強さなりを知っておくべきなのだ。


戻る