漢詩を読み、あるいは自ら漢詩を賦していく中で、漢詩とは、僕にとってごく身近なものになった。それは堅苦しいものではなく、むしろ文学としてこれほど親しみやすいものはないであろうと思われるほどだ。 今や漢詩は僕にとって古典ではなく、現代の文学だ。なぜならそこに記されたことは決して昔の出来事ではなく、今、現に起きていることだからだ。そうでなければ、これほどまでに漢詩が多くの書物に記されたはずがないだろう。 彼らは皆、その時を生きていたし、彼らのその時はそのまま我々が生きているこの瞬間と同じ時間だからだ。歴史にしてもそうで、古代とか中世と言ったものは分かりやすく区別するための仮初のものでしかない。今ここ、この瞬間に接続するものである以上、全ての歴史は現代史だからだ。 そこに時間の距離などありはしない。価値観の違いを、「伝統だから」で済ませることがあってはならない。今で見れば批判すべきものがある。白居易の詩でさえ、倫理観に頭をかしげたくなるようなものがあるし、杜甫の兵車行の「信知生男悪、反是生女好」だって、性差に対する問題として今こそ紛糾することは避けられない。(僕自身がそういう思想に肩入れしていた時期があったのは大いに反省している) そしてそれを克服し、新しい価値観をもたらすことができなければ、文学は停滞してしまうだろう。古人たちも、その時になれば新しい時代の人間に過ぎず、彼らの思考は絶対的なものではなかった。逆に私たちの言うことや書くことが下手すると規範になって、後世の人間の世界観を縛るとも限らない。それを考えると、猶更『古典』と呼ばれているものに伝統や権威といった覆いをかけるべきではないし、 古典とされているものを、そういった虚飾を取り除いてもっと普通に見るべきなのだ。 私は自分で漢詩を作る時、先人たちがいかに古典の知識に通暁していたか思い知るし、それに引き換え自分がいかに無知であるかを痛感するのだ。漢詩を作るのは、和歌を詠むのに比べてはるかにハードルが高い。何しろ一つ一つの字の平仄を覚えなければないし、自然な文章の並びと、絶句や律詩の制約に応じた字の配置を考えなければならないので、煩雑なこと極まりない。 しかし、その作業を通して私は漢詩の中には凄まじい歴史の重みが横たわっているのを実感した。数千年間ずっと歌われ続けてきた積み重ねに私が接続しているのだ。私が漢詩の歴史に参与し、後世につなげていくのだと意識すると、その悠々とした営みに、恍惚とした感情さえ抱くのである。 あらゆる芸術がそうであるように、文学といったものには時間を越えて人に訴えかけるものがある。 現代の人間が感じ、考えていることは、必ずいつか来る時代の人々が考え、感じるはずのことでもあるからだ。漢詩を語る人間にとってもそれは強く実感するものだ。 それを考えると、漢詩は未来の文学でもある。遥かな昔の人間の言葉を、遠い将来の世界の人間にも当てはめ、世相を風刺するにしても、情熱を鼓舞するにしても、確かに誰かの理解を共感を得られるとしたら何と素晴らしいことではないか。もちろん、今に至るまで受け継がれている作品の全てが未来を考えて作られたものというわけではないし、大半の作品は運命の気まぐれで今日まで生き残って来たに過ぎない。だが、それならそれこそ、この漢詩というジャンルを保護することに躍起にならずにはいられないではないか。 であるからには、漢詩が今ここに訴えかける対象に対しても真摯なものでなければならない。何より漢詩を未来に語られるものとして昇華させねばならないからである。 漢詩には時代によって解釈が異なり、様々なテーマを持つものとして現れてくる。近現代になってから、もっと古い文献で使われている言葉を研究して、本来の意味合いを探ろうとする動きも出てきた。だがそれも、もっと広い意味合いで漢詩を鑑賞する立場からすれば絶対的なものではない。 漢詩を解釈することは、今を生きる人間を語ることでもある。解釈という営みを伝えることこそ、現代から未来へ時代のバトンを手渡すことだからだ。 だからこそ僕は漢詩というジャンルを再興させねばならないと思うのだ。人間に示唆を与えるには、漢籍に寄らざるものはない。 漢詩は文明の変化に応じて発展してきた。 言葉とは基本的に移ろいゆくものだ。ラテン語でさえ、カエサルの時代が生きていた頃の言葉と、中世のキリスト教聖職者の書いていた言葉とでは大きな違いがあるし、当然昔の人々には理解できない今の概念は大量に存在する。漢詩には、散文の漢文作品と同じようにその時代の俗語が時折混じっている。 1978年生まれの、程濱という詩人の漢詩に『雨中御車』というものがある。 密雨洗車窓 密雨車窓を洗ふ 車窓明如鑑 車窓明きこと鑑の如し 密雨打車篷 密雨車篷を打つに 如盾搪乱劍 盾のごとく乱劍を搪ぐ 密雨猛且凉 密雨猛く且つ涼しく 前涂泥且陷 前塗泥みかつ陷む 我車非公交 我が車は公交にあらず 何處是一站 いづこぞこれ一站 使われている文字を一見しただけでもこの作品には現代中国語の影響が見て取れる。しかしこの自然を趣深く描写する巧みさと、そこから密かな心情を暴く技巧は間違いなく伝統的な漢詩そのものだ。 変化こそが言語の醍醐味なのだ。この作品を見て、改めて私はこんな感慨にふける。漢詩とは現代にまで続く芸術だと。だからこそ図書室の奥から引きずり出して日常的なものにし続けねばならないし、棚の中で死んだままにしておくべきではないのだ。 |